サカタカツミノブログ

個人的なブログ。ブログなんてすべてそんなものだけど。

自分の物差しという考え。

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思い込みと付き合うのはなかなか骨が折れる。間違いなくそうだ、と勝手に決め付けてしまって、そこから他へと思いが至らないことは、日常茶飯事なのだ。例えば、コーヒーサーバーに杯数の目安が印刷されていることはよくあることだけど、あの一杯はなんの一杯を意味しているのかを深く考えることなく、まあ、一杯なんだろうなと思い込んでしまっている自分に愕然とする。量が正確に表記されていても、自分が利用しているカップの容量がわからないと、これはこれでまったく目安にはならないのだけれども。

ペットボトルの容量は一定だと思い込んでいて、値上げをしたいメーカーはその心理を上手くついて、こっそりと減量してシレッとした顔をする。飲食店でよく見かける一人前という表記だって、なにをもってそうなのかという明確な定義はなくて、結局、どのくらいが適量なのかがわからない。化粧品などの一回分という表記にしても、なにを根拠にその分量なのかな。そう考えると、結果として自分の物差しを持つしか混乱を防ぐ手立てはない。ただ、その物差しを作る基準の設定がまた難しい、という悩みがある。

今宵もバーで酒を飲む私。

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バーで酒を飲む時にいくつかのマイルールがある。といっても面倒なルールでもなんでもなくて、要は飲み過ぎないためのおまじない、のようなものである。まず、よほどのことがない限り、三杯までで切り上げる。美味い酒をサクッと飲んで帰る。飲みすぎるとろくなことがないので。次に、最初はジントニックを頼む。理由は簡単で好きだからである。バーテンダーの技量を試そうなんて魂胆はさらさらない。ジンの銘柄にもこだわらない。もちろん、美味しいジンであってほうがいいに決まってはいる、けれども。

ちなみに、ジントニック。あのサヴォイのカクテルブックにも、レシピは未掲載。ジン・スリングなる、ナツメグを少しおろして仕上げる、という興味深いカクテルは掲載されているのに、である。ま、種を明かせば、ジン・トニックは、第二次世界大戦後に流行したカクテル。手元にある1971年発行の「カクテル事典(杉田米三著/柴田書店)」にも、ジン・アンド・トニックと表記され、ジン・トニックと省略されて呼ばれる、と記載があるくらい、なんて話はバーではしない、というルールが、実は最も重要だ。

がらにもないことをする。

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たとえば五百円玉貯金。やってる、と周囲に話すと「意外です、そういうことはやらないタイプだと思っていました」という反応をされる。その通り。柄ではない。だからこそやってみるといいのかなと、最近考えている。毎月一つ、柄でもないことにこっそりとトライして、黙ってやる。ただそれだけ。そうでもしないと、この歳になると関節が固くなってしまうように、頭の中が「こんなものだ」「そういうことだ」「でなければならない」というキーワードで埋め尽くされてしまう。息苦しくなる気がする、うん。

歳を重ねることによって得られる経験は貴重で、その価値は計り知れない。が、経験から作られた自分は、絶対に守るべきもの、あるべき姿ではないと考えている。だからこそ、数秒前の自分を破壊、そう、柄にもない、意外なことをすることで、新たな自分を作り上げていきたいと思う。昨日会ったあなたが見たわたしは、今日のわたしとは別人なのだ。当たり前のことなのに忘れがちなそれを、改めて自覚するために、わたしは今日も五百円玉を貯金し続ける。嘘。ただ無駄遣いしないようにと心がけているだけだ。

しみじみと地味で滋味な。

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子どものころはトロの握りが好きだった。腹一杯好きなものを食べていいといわれて、遠慮することなくトロを何十個と食べて、その後「好きなものを食べていい」というお許しが二度となかったことを未だに覚えているくらい。かんぴょう巻きは眼中になく、食べた記憶すらない。そしていま、この歳になって、かんぴょう巻きは大好物である。トロの握りはもう食べないが、ワサビを効かせたかんぴょうの細巻きは、締めに必ず食べる。むしろこれを食べるために、その前の握りをセーブするくらいの存在なのだ。

そう考えると、いま絶対だと思っていることは、意外に儚いことであり、変わらないものなどなにもないということなのだろう。トロの握りがあればほかになにもいらないと思っていたのに、もはやそれ自体がいらなくなっているのだから。こうでなければならない、こうするべきだ、という思い込みには、心がけて注意しなければならないことがわかる。いや、そんな大げさなことではない。ただ、かんぴょう巻きが旨いと感じられる歳になったということだ。四回目の干支を迎えてやっと、ということかもしれない。

経験の功罪を考えてみた。

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ビジネス社会に限らず、経験がないことは不利になるケースが多い。そう、なにか困難に直面したとしても、一度でも似たような経験をしていれば、意外にスムーズに乗り越えられる。ただ、逆にいうと、一度経験したのだから、二度同じ困難に直面するなといわれそうだが、それはそれとして。また、経験がないという理由だけで、チャンスを得ることができないことは頻繁なのだから、たとえそれが、タマゴニワトリ問題*1だとしても、やはり経験は積んでおくべきなのだろう。どんなことをしてでも、どこででも、誰でも。

ただ、経験が自分を縛ってしまうというケースもある。先に挙げた例だと、経験があるから、前回と同様の解決策を取ってしまいがちだが、実はもっと良い方法があるかもしれない。それを思いつくことを、自らが持っている経験が邪魔をしてしまう。新しいことにチャレンジしようとしても、経験を活かさなければという、ちょっとしたプレッシャーにも似たブレーキがかかってしまって、結果的に良いことがないというシーンも想像に難くない。だからなに、という話ではない。いつも通り、答えなんてない。人生はやはり難しい。

*1:経験ないからチャンスない、チャンスないから経験ない、どうしたらいいんだという話。