サカタカツミノブログ

個人的なブログ。ブログなんてすべてそんなものだけど。

豆の旨さにいま気がつく。

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好き嫌いなどないと自慢げにいいたいが、残念ながら少しだけある。まずキュウリ。近所のサンドイッチが美味いパン屋さんでも、ツナサンドのキュウリは抜いてもらう。サラダがとても美味いフレンチレストランでも、抜いてもらわなかったキュウリは同行者の皿にこっそりと移したりする。ただ、好みではないだけで、実は食べられる。スイカはスープやシャーベットになっていれば我慢できるが、切っただけの状態だと食べられない。苦手ではなく、これは嫌い。ただ、大人になってから好きになったものもある。

例えば、豆はその典型。子どもの頃、豆ご飯だといわれれば、憂鬱になったものだ。煮豆も好きではなかったし、おせち料理の黒豆に心弾むことはなかったし、節分のときの煎り大豆だってまったく好きじゃなかった。今はどうだろう。豆は好物だ。インドレストランにおける豆カレーは、文字通りファーストチョイスだし、ビストロでも豆料理があれば頼む。和食屋さんにおける土鍋で炊かれた豆ご飯は、歓声を上げるメニューの一つだ。そう考えると揺るぎない価値観の持ち主なんて、幻想なんだなと思う。きっと。

自分の物差しという考え。

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思い込みと付き合うのはなかなか骨が折れる。間違いなくそうだ、と勝手に決め付けてしまって、そこから他へと思いが至らないことは、日常茶飯事なのだ。例えば、コーヒーサーバーに杯数の目安が印刷されていることはよくあることだけど、あの一杯はなんの一杯を意味しているのかを深く考えることなく、まあ、一杯なんだろうなと思い込んでしまっている自分に愕然とする。量が正確に表記されていても、自分が利用しているカップの容量がわからないと、これはこれでまったく目安にはならないのだけれども。

ペットボトルの容量は一定だと思い込んでいて、値上げをしたいメーカーはその心理を上手くついて、こっそりと減量してシレッとした顔をする。飲食店でよく見かける一人前という表記だって、なにをもってそうなのかという明確な定義はなくて、結局、どのくらいが適量なのかがわからない。化粧品などの一回分という表記にしても、なにを根拠にその分量なのかな。そう考えると、結果として自分の物差しを持つしか混乱を防ぐ手立てはない。ただ、その物差しを作る基準の設定がまた難しい、という悩みがある。

今宵もバーで酒を飲む私。

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バーで酒を飲む時にいくつかのマイルールがある。といっても面倒なルールでもなんでもなくて、要は飲み過ぎないためのおまじない、のようなものである。まず、よほどのことがない限り、三杯までで切り上げる。美味い酒をサクッと飲んで帰る。飲みすぎるとろくなことがないので。次に、最初はジントニックを頼む。理由は簡単で好きだからである。バーテンダーの技量を試そうなんて魂胆はさらさらない。ジンの銘柄にもこだわらない。もちろん、美味しいジンであってほうがいいに決まってはいる、けれども。

ちなみに、ジントニック。あのサヴォイのカクテルブックにも、レシピは未掲載。ジン・スリングなる、ナツメグを少しおろして仕上げる、という興味深いカクテルは掲載されているのに、である。ま、種を明かせば、ジン・トニックは、第二次世界大戦後に流行したカクテル。手元にある1971年発行の「カクテル事典(杉田米三著/柴田書店)」にも、ジン・アンド・トニックと表記され、ジン・トニックと省略されて呼ばれる、と記載があるくらい、なんて話はバーではしない、というルールが、実は最も重要だ。

がらにもないことをする。

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たとえば五百円玉貯金。やってる、と周囲に話すと「意外です、そういうことはやらないタイプだと思っていました」という反応をされる。その通り。柄ではない。だからこそやってみるといいのかなと、最近考えている。毎月一つ、柄でもないことにこっそりとトライして、黙ってやる。ただそれだけ。そうでもしないと、この歳になると関節が固くなってしまうように、頭の中が「こんなものだ」「そういうことだ」「でなければならない」というキーワードで埋め尽くされてしまう。息苦しくなる気がする、うん。

歳を重ねることによって得られる経験は貴重で、その価値は計り知れない。が、経験から作られた自分は、絶対に守るべきもの、あるべき姿ではないと考えている。だからこそ、数秒前の自分を破壊、そう、柄にもない、意外なことをすることで、新たな自分を作り上げていきたいと思う。昨日会ったあなたが見たわたしは、今日のわたしとは別人なのだ。当たり前のことなのに忘れがちなそれを、改めて自覚するために、わたしは今日も五百円玉を貯金し続ける。嘘。ただ無駄遣いしないようにと心がけているだけだ。

しみじみと地味で滋味な。

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子どものころはトロの握りが好きだった。腹一杯好きなものを食べていいといわれて、遠慮することなくトロを何十個と食べて、その後「好きなものを食べていい」というお許しが二度となかったことを未だに覚えているくらい。かんぴょう巻きは眼中になく、食べた記憶すらない。そしていま、この歳になって、かんぴょう巻きは大好物である。トロの握りはもう食べないが、ワサビを効かせたかんぴょうの細巻きは、締めに必ず食べる。むしろこれを食べるために、その前の握りをセーブするくらいの存在なのだ。

そう考えると、いま絶対だと思っていることは、意外に儚いことであり、変わらないものなどなにもないということなのだろう。トロの握りがあればほかになにもいらないと思っていたのに、もはやそれ自体がいらなくなっているのだから。こうでなければならない、こうするべきだ、という思い込みには、心がけて注意しなければならないことがわかる。いや、そんな大げさなことではない。ただ、かんぴょう巻きが旨いと感じられる歳になったということだ。四回目の干支を迎えてやっと、ということかもしれない。