サカタカツミノブログ

個人的なブログ。ブログなんてすべてそんなものだけど。

ママやパパがサンタさん。

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以前、サンタクロースの正体はある時期から親だ、というストーリーを書いたらどうかという、与太話をしたことがある。こんな感じだ。12月に入ると、全国の6歳児を持つお父さん、お母さんは、突然三日間の旅に出る。そう、サンタクロースになるための研修を受けるのだ。それ以下の子供たちには、いままで通りサンタクロースがやってくる。けれども、子供の数は多い。だから、お父さん、お母さんがサンタクロースから委託を受けて、世界の良い子に「今年も素敵な子供でいてくれてありがとう」と感謝の意を表するのだ。もちろん、大切なのはプレゼントを渡すことではない。気持ちを伝えるということ。その意義と意味を。多くのお父さんお母さんはサンタクロースから学ぶ。

研修は厳しい。トナカイの操縦や煙突からの住居侵入の方法は、時代錯誤なために、もはや免除されているが、それ以外はあまり変わっていない。一年、自らの子供が何にトライをし、どのように悩み、そして成長してきたのか。お父さんお母さんサンタクロースは、丁寧に、そして、一つ一つ振り返らなくてはならない。そして、子供の成長とそれにまつわるエピソードを知らない親は、自分自身を反省しなければならない。ページをめくるように、シーンを思い出して、そこにある笑顔を思い出す。そして、どんな言葉で子供たちに「素晴らしい一年になったね。素敵な子供でいてくれてありがとう」と伝えるのかを、研修の三日間考えるのだ。そしてカードにそれを書き、我が家に戻る。

そうなれば、プレゼントを選ぶのは簡単だ。子供たちと過ごした年の中で、彼らがどんなものに興味を持ち、どんなことに喜んだのか。思い出せばいいだけだ。子供たちはいうだろう、どうしてサンタさんは、自分が欲しいと思っているものがわかるのだろうかと。そりゃわかるさ、だって、あなたたちのことを、いつだってどんな時だって、ずっと見ている人たちが、あなたにとってのサンタクロースなんだから。

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というところまで、二年前に下書きしていた。今日、ふと、古いブログの整理をしていたら、それを発見した。これ、親子に限った話じゃないね。恋人はサンタクロースって話だって、同じことなんだから。宗教的な意味はわからない。マーケティングに踊らされるなと揶揄することも容易い。けれども、やっぱり誰かに感謝の意を込めて、贈り物をするという、その行為は楽しいと思うのだ。メリークリスマス、というセリフは恥ずかしくてとても言えない、かもしれないが、浮かれた気分が漂う、この、年末に向けてのわずかな期間で、ちょっとした贈り物をする、気の利いた食事を共にする、それっていいことなんじゃないかと、この歳になって思う。ということで、皆さん楽しい夜を。

というところまで2017年12月22日に下書きしていて、公開を忘れたわたしこそ、あわてんぼうのサンタクロースなのかもしれません。いや、そんなかわいくない。

その街にあったあの珈琲。

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自家焙煎という言葉に過剰に反応してしまう。珈琲が好きなので当然と言えば当然なのだが、それに加えて、その場所でしか飲めないという、ある種の物語のようなものに惹かれてしまうのも大きな理由。コーヒー豆は生鮮食品であると思っているので、できれば評判のいい、流行っている店で飲みたい。たくさん客が入っているということは、美味しいはずだ、という以上に「きっと豆が新鮮である」と、類推できるからだ。余談だけが、和菓子屋さんもそうだ、と思っている。流行っている店は商品の回転が早い、ということは、いつも出来立てに近い新鮮な菓子が食べられ、結果的にそれは美味しい。

街に愛されてるコーヒーショップは、佇まいがいい。さりげなく溶け込んでいるのに、結果として際立っている。浮かび上がってくるというと大げさだけど、歩いていても目の端に入る。その店内の空気を壊さないように、そっと中に入ってみると、その街の空気が流れている。邪魔をしないようにあてがわれた席に座り、その店で飲むべきメニューを見つけ出すことに全力を傾ける。といっても、店として一押しだったり、ネットで評判をとっているそれを飲む、ということではなく。今の自分の気分に相応しいコーヒーを探すと。そう、その街に暮らしているとして、今、その場で飲みたくなる一杯を。

たまごを愛してやまない。

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物価の優等生といえば、たまごかバナナかという感じで、安さの代名詞になってしまっているたまごだけど、なかなかどうして、まだまだ人気者だ。たまごが乗っているだけで、料理が美味しそうに見えたり、たまごがたくさん使われているだけで、そのメニューがゴージャスに思えたりする。みんなどれだけたまご好きなんだ、と思っている私はどうかといえば、それはもう大変なたまご好きである。親子丼だって鶏肉がたくさん入っているタイプのものよりも、出汁とたまごを自慢するようなそれが好みなくらいで。

居酒屋で飲んでいてもだし巻きがあれば必ず注文するし、ビストロでもメニューになくても「卵料理を作ってもらうことはできますか」と無理強いをしてみたりする。蕎麦屋の玉子焼きは絶品だと思うし、たまごのサンドイッチは、それこそサラダタイプであっても、ゆで卵であっても、愛してやまない。休みの日の少し寝坊をした朝は、塩の効いたよくいえば素朴な、悪くいうとラフなバターをたっぷりと使って、いい加減なオムレツを作って、少し気の抜けたクレマンと一緒に食べたいなと。寝巻きと寝癖のままで。

あらためて働くを考える。

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観光地の隣に事務所を構えている関係で、非日常な状況に遭遇することがある。といっても、それほど大げさなことではなくて、要は祭りに「浸かる」と表現すればいいのかもしれない。どこからか人が湧いてきて、とても騒いでいる。楽しそうな非日常を横目に見ながら、締め切りをとっくに過ぎた原稿を書く日常。いや、締め切りをとっくに過ぎていることを日常にしてはいけないのだが、それはそれとして。その非日常に一瞬だけ触れるためにいそいそと徒歩0分の場所へ向かう。ま、サボっているということだ。

カメラでパチリ。写り込んでいる人々をみると、噺家がくっきり。遠くから見て職業がわかるって凄いなと。働くが、それこそ板についているということなのだろう。なんだろう、この感覚。不思議。若いときは働くということを、もっと頭で考えていた。そう、誰かに理解してもらいたくて、説明ばかりしていた。が、ある程度の歳をとったいま、逆にもっとフィジカルに考えてもいいかもしれない、と思っている。あらためてしばらく封印していた「働くを考える」ことをしよう。要は新連載が始まるということ。

その瞬間を切り取る習慣。

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古い写真を見るのが好きだ。高名な写真家のそれを鑑賞するのはもちろんのこと、ごく普通の人が撮影した、何気ない日常を切り取った一枚が好きだ。ソーシャルネットワークツール全盛時代、似たように日常を切り取った写真を目にすることは多くなったけれども、昔のそれとは味わいが違うような気がする。その瞬間を留めておきたいという気持ちと、この瞬間を留めることで誰かに褒められたい、と意識する感覚の差かもしれない。作為的というほど大げさではない。無意識の行動の中に、他人の視線が入り込む。

例えば、飲食店で美味い料理よりも、フォトジェニックなそれを出すことを意識したほうが、マーケティング的には手っ取り早い、と考える人がいても不思議ではない。とてもじゃないが食べきれない量、だけれども万人が驚いてしまう料理だと、それと向き合っている瞬間を切り取って、シェアしたくなる衝動は自然だし、それに素直に凄いなという人がいることは、当然の成り行き。同時に、見て驚いている瞬間を切り取っている間に、味わいが落ちてしまうかもしれない料理のことを考えると、少し切なくもなる。