サカタカツミノブログ

個人的なブログ。ブログなんてすべてそんなものだけど。

ただうまいものを食べる。

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うまいものを食べるのが好きだ。シンプルになんのてらいもなくいえる。趣味らしい趣味がないので、食べ歩きが趣味ですかと問われることもあるが、基本的には食べ歩かないので、食べ歩きは趣味じゃない、きっと。美食なのかといわれると、そうなのかもしれないが、そうでもない時もあるので、グルメだのなんだのというカテゴリには入らないと思う。レストランのレビューサイトも見ないし、レストランガイドも買わなくなってしまった。おいしいものを食べたいときは、誰かに紹介を乞う。それが基本である。

それでおいしいお店にたどり着きますか、という質問を受けるが、ほぼ、たどり着く。もちろん、味にしても接客にしても、それこそ、店の雰囲気にしても、相性の問題があるので、紹介してくださった人にとっては素晴らしい店であっても、わたしにとってはそうでもないということも多い。逆もまたしかり。ただ、うまいものを食べたい、そのまっすぐでいながら揺らぐことのない思いを、周囲に熱心に伝えておきさえすれば、まあ、多くの人は簡単にお店を紹介してくれなくなるはず。そして、そこが重要なのだ。

有能な上司のみわけかた。

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心配しなくても、上司が有能であるかないかは、たいていの場合、見分ける必要はない。ほとんどの上司は有能だし、もしあなたが上司の無能さを嘆くのであれば、あなた自身がきっと有能なはずだ。だからというのも変だが、上司が有能だろうと無能だろうと、実はそれほど大きな影響はない。正しくいうと、所属している組織が、ある程度健全に機能していれば、だけど。組織というのは、その恒常性に目を見張らされることが多い。きちんと設計された組織は、割合にうまく機能して、問題はそれほど起きない。

やっかいなのは、上司の不必要な行動だろう。やらなくてもいいことをやる、端的にいうと邪魔したがる上司だ。さらにこの人、一見すると無能に見えない。むしろ有能に思えることもある。が、この類の上司がいると、組織は健全さをなくし、そこに関わる多くの人たちの貴重な時間と、そこにあったやる気までも、どこかへ消え失せてしまう。それを結果として無能と言うんだと嘯くのは簡単。しかし、単なる能力不足のほうが、影響力がそれほどなく、被害も小さくなると思うと、少しわけて考えておくとベター。

前提を間違ってしまうと。

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例えば「人は学びたいと思っている」という前提に立っている人たちと話すと、人は誰であっても、どんな人であっても、絶対に「学びたいという気持ちを持っていて、それを表出することができないだけだ」という、決まったストーリーに沿った会話になる。さらにいうと、そういう会話をする人たちは、そういう会話が好きな人で、かつ、そういう前提に立っている人たちで集まってしまうので、結果として、それは当たり前の話になって、間違いのない、それこそ、強固な価値観になってしまう。もちろん、そうじゃないことは考えればわかるのだが、まあ、実際はわからない。勘違いしがちである。

前提をフラットにすることは難しい、というか、たぶん無理。だからこそ、フラットにいるべきだ、という姿勢を保ち続ければ、という前提を持たなければ、的な前提も、やはり間違っている可能性がある。世の中にはいろいろな考えを持つ人がいる、ということは、当たり前で、結局のところ、そんなことをことさら声を大にしていう必要はないとは思っても、結果として、前提をフラットにしている人たちのメッセージは弱々しいものになって、誰にも届かなくなってしまうことが、意外に怖いことなので、大きな声と思い込みの強いメッセージには、いつも懸念を示しておきたいと思っている。私は。

新しいことを始める時に。

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新しいことを始めるからといって、気負う必要はないと思えるようになるまでに時間がかかった。誰かに宣言をする、形から入る、ある意味浮かれる、そんな非日常的なアプローチを経てから、そう、自分を奮い立たせてからでないと、ことが起こせないような気がしていた。ま、助走的な意味合いにはなる。ただ、上手くやらないと、助走で疲れてしまって、その先の結果が良いものにはならない。力加減が難しいのだけれども、淡々と、そして、シンプルに、サクッとやるほうが、案外うまくいく。そして、それは長続きもする。ピークを最初に持ってきてはならない、ただそれだけのことなのだが。

同時に先のことを考えすぎない、ということも大切であると思えるようになった。先を見通す能力がある、ごく一部の天才は別にして、なかなか未来のことはわからない。結果、下手な考え休むに似たりになってしまう。いまと、ほんの少しだけ先のことをみて、さて、一生懸命やるかというくらいがちょうどいい。こんなことを公言してしまうと、だから事業的にスケールしないんだと言われそうだが、多くの事業はスケールしないし、そもそもなくなってしまうものだって少なくないのだから、明日の仕事があって、明後日ご飯が食べられるくらいのサイズも、なかなか大したものだと思っている。

これでいいという気持ち。

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決して上昇志向がないという話ではなくて。あ、これでいい、ちょうどいい、これがいいって感覚に、ふと陥ることがある。たとえここから先に、もっと素敵で素晴らしいことがあったとしても、自分にはこのくらいがちょうどいい、という感じ。身の丈に合っているという感じとは違うので、説明が難しいのだが、まあ、そんなくらい。ただ、この感覚を理解するのは大変だし(だから説明できていない)、他人に要求するのは酷である。人をもてなすとする。自分ではこのくらいでいいと思っていても、相手にとっては過剰であったり、もしくは、完全に不足していることなどは、ごく当たり前にある。

自分の感覚を当たり前であると思ってしまうとまずいし、相手に自分の基準のようなものを押し付けてしまうと、問題が起きる。ただ、多くのケースでは自分の基準で判断するしかなくて、結果としてうまくいかないこともある。もちろん、うまくいくことだって、あるのだが。他人を許容するということは、自分を押し殺すことでは当然ないのだけれど、それでも結果として、そういう部分がないと、なかなか他人とうまくやっていくことは難しい。ただ、相手もそういう気持ちになってくれると、世の中がもっと平和なのだが、結局、世の常としてそういうことはなく、たいていは、ささくれてしまう。