サカタカツミノブログ

個人的なブログ。ブログなんてすべてそんなものだけど。

前提を間違ってしまうと。

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例えば「人は学びたいと思っている」という前提に立っている人たちと話すと、人は誰であっても、どんな人であっても、絶対に「学びたいという気持ちを持っていて、それを表出することができないだけだ」という、決まったストーリーに沿った会話になる。さらにいうと、そういう会話をする人たちは、そういう会話が好きな人で、かつ、そういう前提に立っている人たちで集まってしまうので、結果として、それは当たり前の話になって、間違いのない、それこそ、強固な価値観になってしまう。もちろん、そうじゃないことは考えればわかるのだが、まあ、実際はわからない。勘違いしがちである。

前提をフラットにすることは難しい、というか、たぶん無理。だからこそ、フラットにいるべきだ、という姿勢を保ち続ければ、という前提を持たなければ、的な前提も、やはり間違っている可能性がある。世の中にはいろいろな考えを持つ人がいる、ということは、当たり前で、結局のところ、そんなことをことさら声を大にしていう必要はないとは思っても、結果として、前提をフラットにしている人たちのメッセージは弱々しいものになって、誰にも届かなくなってしまうことが、意外に怖いことなので、大きな声と思い込みの強いメッセージには、いつも懸念を示しておきたいと思っている。私は。

新しいことを始める時に。

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新しいことを始めるからといって、気負う必要はないと思えるようになるまでに時間がかかった。誰かに宣言をする、形から入る、ある意味浮かれる、そんな非日常的なアプローチを経てから、そう、自分を奮い立たせてからでないと、ことが起こせないような気がしていた。ま、助走的な意味合いにはなる。ただ、上手くやらないと、助走で疲れてしまって、その先の結果が良いものにはならない。力加減が難しいのだけれども、淡々と、そして、シンプルに、サクッとやるほうが、案外うまくいく。そして、それは長続きもする。ピークを最初に持ってきてはならない、ただそれだけのことなのだが。

同時に先のことを考えすぎない、ということも大切であると思えるようになった。先を見通す能力がある、ごく一部の天才は別にして、なかなか未来のことはわからない。結果、下手な考え休むに似たりになってしまう。いまと、ほんの少しだけ先のことをみて、さて、一生懸命やるかというくらいがちょうどいい。こんなことを公言してしまうと、だから事業的にスケールしないんだと言われそうだが、多くの事業はスケールしないし、そもそもなくなってしまうものだって少なくないのだから、明日の仕事があって、明後日ご飯が食べられるくらいのサイズも、なかなか大したものだと思っている。

これでいいという気持ち。

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決して上昇志向がないという話ではなくて。あ、これでいい、ちょうどいい、これがいいって感覚に、ふと陥ることがある。たとえここから先に、もっと素敵で素晴らしいことがあったとしても、自分にはこのくらいがちょうどいい、という感じ。身の丈に合っているという感じとは違うので、説明が難しいのだが、まあ、そんなくらい。ただ、この感覚を理解するのは大変だし(だから説明できていない)、他人に要求するのは酷である。人をもてなすとする。自分ではこのくらいでいいと思っていても、相手にとっては過剰であったり、もしくは、完全に不足していることなどは、ごく当たり前にある。

自分の感覚を当たり前であると思ってしまうとまずいし、相手に自分の基準のようなものを押し付けてしまうと、問題が起きる。ただ、多くのケースでは自分の基準で判断するしかなくて、結果としてうまくいかないこともある。もちろん、うまくいくことだって、あるのだが。他人を許容するということは、自分を押し殺すことでは当然ないのだけれど、それでも結果として、そういう部分がないと、なかなか他人とうまくやっていくことは難しい。ただ、相手もそういう気持ちになってくれると、世の中がもっと平和なのだが、結局、世の常としてそういうことはなく、たいていは、ささくれてしまう。

上手いことを言いたい人。

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大相撲の話題でワイドショーが持ちきりである、ことはわりとどうでもよくて。大相撲のファンであると自称している人たちも、その多くは実際の場所に訪れた経験がないことの方が多いようだ。まあ、チケットも高いし。だからというのも変だが、現場に足を踏み入れてみると、その独特の空気、そう、スポーツライブというにはあまりにもゆるい空気と、土俵上での肉弾戦の迫力と、ネットメディアなどで人気者であっても、場内ではまったくの不人気である、といった格差の存在に驚く人も、少なからずいる。現実は複数あって、どれも事実であって、そして、どんなことでも、その一面でしかない。

いま敵視(苦笑)されている横綱も、しばらく前は、まったくの人気者であった。ひとりで頑張ってきた、その功労を称えるべきだという声も少なくなかったので、その逆風っぷりには驚かされてしまう。が、場内ではまだまだ人気はあった。けれども、酔っ払いによる、上手いことを言いたいだけのヤジが、最近増えた。真面目に取れ、反則するな、ちゃんとやれ、と。横綱本人としては、大真面目に相撲を取っているはずだし、反則はしていない。ただ、横綱としての振る舞いとあっていない、とされているだけだ。それを「ちゃんとやれ」といわれようものなら、立つ瀬がない。ウケたいだけの人に。

フードポルノへようこそ。

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食事の席で出された料理を写真に収めるという行為は、もはや当たり前になってしまった。いや、当然、それを禁止しているお店もある。が、多くの場合「お写真をどうぞ」といった、結婚式におけるケーキ入刀時点の司会者の掛け声のようなものが、お店のシェフやスタッフから、かけられることになってしまった。撮る気がなかった人まで、スマートフォンをカバンの中から取り出して、とりあえずと言った風情で一枚パチリとやる。そういう、改めて見ることもなさそうな写真が、フォルダの中にたくさん溜まっているという人も少なくないだろう。そんな時代だ。だからなに、というわけではなく。

わたし自身、料理の写真を撮ることが好きだ。溜まったそれをみて「あー、これは美味かったな」とか「この料理が出てきたときに、あの人と、どうしようもない話をしたよね」という感じの、ちょっとした振り返りをしたり。その時間もまた楽しい。ただ、ひとつ言えることは、旨くなかった料理であっても、写真の撮り方いかんでは美味く見えるというケースは少なくないということ。同時に、いくら上手に撮れていても、その旨さが十全と伝えられない写真も多いということ。特に後者は不思議とある。言葉はいつも思いにたりない、という言葉があるが、写真はいつも旨さにたりない、という感じ。