サカタカツミノブログ

個人的なブログ。ブログなんてすべてそんなものだけど。

そして僕は途方に暮れる。

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贅肉がたくさんついている身体の持ち主なので説得力はゼロなのだが、スリムであることはとてもいいことだ。といっても身体のことではなく、組織や仕事についてのこと。常に贅肉がついていないか見直して、ついている、もしくはつきそうだとわかったら、その瞬間からそれを退治してしまう。そうしないと、間違いなく組織や仕事、それらを支える仕組みには贅肉がついてしまって、身動きが取れなくなってしまう。気がついたら贅肉を維持するための贅肉がついてしまっていて、そうなると取り返しがつかない。

ただ、ある程度の贅肉がついているほうが、見栄えがいいと思えてしまうときがある。正しくは、そう勘違いする人が世の中には少なくない。多くの企業が用意している規則や規定の類は『ないと困る』ものは少なくて、むしろ『あると迷惑』なものが多い。セレモニー的なものの多くも、いつの間にか当たり前になってしまったように感じているだけで、実際には必要性を認めにくいものだって多いはずだ。いつの間にか忍び寄るそれらを前に、途方に暮れてしまわないように。そう、ダイエットは今日から、なのだ。

なぜできないかを考える。

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じぶんになにができるのか、ということを説明するのは難しい。簡単にスキルの可視化というが「それが上手くできれば苦労はしないのだと」独り言をつぶやいてしまうことも多い。じぶん一人のことですら上手く説明ができないのだから、組織がどんなスキルを持っている人を求めているのかなんて、それこそ途方もない話である。もちろん、必要な資格が厳密に決まっているような仕事なら、その資格を持っていることは、と書きかけて、資格があっても仕事ができない人もいることに気がついた。さあて、困った。

とはいえ、そのあたりをあいまいにすることで、不幸が起こるのは、多くの人が承知しているはず。働く現場もそろそろ、なにができる人が欲しいと明確にする時代だと、改めて思う。裏を返せば、企業はそれを明示しないで、働きたいと願う人たちにだけ説明させ続けてきた罪は重い。そう「あなたはなにができるのか、それをアピールしてくれ」と。でも、よく考えたら順序が違う。どんなことができる人が欲しいと明示しなければ、その基準に自分が当てはまるかどうかなんて、わからない。古くて新しい課題。

しないを選択する難しさ。

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仕事(事業というほど大げさではない)が順調な時には、欲が出る。いろいろとトライしてみたくなるし、新しい人とご一緒したくなる。さまざまなお誘いも受けることになるし、その中には魅力的なものも多い。だから、というのも変だけれども、それをしないという選択はとても難しい。あえてしないといってしまうと、周囲の人たちに、強がっているように感じさせるのではないか、と、一人で勝手に思ってしまうからかもしれない。でもまあ、三十年以上仕事をしてきて、断言できるのは、欲はほどほどがいい。

いままで見てきた中で、後で立ちいかなくなる人たちの多くは、順調と勘違いしてアクセルを踏み込んだ人ばかりだ。その行動の根拠になりそうな「勇気を持って踏み出さなければ成功はない」と嘯く人の多くは、運の良さを忘れてしまっている。運が良くても実力がなければ成功しないが、実力があっても運がなければ上手くいかない。そして、運気のようなものは見つけられないし、兆しを見つけても判断は難しい。しない選択をしてもなお、欲が満たせている人は少なくない。そして、そういう人はかなり手強い。

戦わないことで個性的に。

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差別化という言葉は使いたくないけれども。多くの場合、違いを見せないかぎり、選ばれることはない。企業であってもサービスであっても製品であっても、それこそ人物であっても同じことだろう。なにか理由があるから選ばれるわけだし、さしたる理由がないとしても、それでも選択されるということは、そこに選ばれなかったものとの違いが存在するはず。それが微差であったとしても。ただ、そもそも選ばれるということは、複数の選択肢の中に身を置くことであり、いわば戦いは必然である。意外にしんどい。

唯一無二の存在になる、ある意味個性的でありさえすれば、複数の選択肢のなかに入らなくても済むかもしれない。逆にいうと、選択肢に入らないようにすることで、個性的な存在になれるかもしれない。戦わないこと、選択肢にならないことで、個性を際だたせる。最近、事業の方向性や、働きかたについて、意見を求められることが多いけれども、大した話ができるはずもない。ただ、ポジションを少しずらすことによってなるべく戦わないで、ちょっとした個性を際立たせる方法を、一緒に考えるようにしている。

炊き込みご飯という至福。

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締めのご飯が土鍋で炊かれたそれ、というメニュー構成の店が多くなった気がする。季節のいろいろをギュッと詰め込んで、ふっくらと炊き上げられた鍋は、開けた途端に歓声が湧き(というか、自然と声を出してしまう)、その香りにクラクラしてしまう。旨そうだ、というより、きっと、それは間違いなく旨い。ただし、たくさんは食べられない。なぜなら、その一鍋(一皿ではなく)にたどり着くまでに、いろいろと食べているからだ。最後にお楽しみが待っていてもなお、そのお楽しみのためのセーブは難しい。

「どのくらい召し上がりますか?」という店主の呼びかけに「茶碗半分か、軽く一杯程度」と応じる。本当は二杯は食べたいところだが、悲しいかな、もう食べられない男、齢五十である。結果として残ったそれはお土産となり、お握りにしてもらったり、そのまま持ち帰り容器に入れてもらって、手に下げて帰ることになる。といいつつ、ほとんどは一緒にお付き合いいただいたかたに、お持ち帰りいただくことになるのだけど。「翌朝の食卓が豪華になりました」というメールをいただくと、こちらまで嬉しくなる。