サカタカツミノブログ

個人的なブログ。ブログなんてすべてそんなものだけど。

普通はという言葉の意味。

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人と会話をするということは、前提として『明文化されていない、けれども共通のルール』や『結果的に多くの人が常識だ、と思っている事柄』をベースとしてなされると思う(曖昧なのは理由がある)。と、思っていると、大間違いであることがままある、と思う(ここも曖昧に)。一生懸命説明しても、ポカンとしてピンときていない相手とは、その辺りのそもそもの前提が違っているというケースが多いはず(略)。なのだが、人の行動というのは一朝一夕に変えられるものではなくて、すぐに「フツーに考えると」とか「常識ではね」という言葉を繋いで、自分の相手とのズレを埋めようとしてしまう。

と書いている話も、別に一般的になっている話ではなくて、わたしが勝手にそう思っているだけで「いやいや、まったくズレなど起きたことがないよ」と豪語する人がいるかもしれないし、そもそも普通のことを理解していない人が悪いのだから、ズレが発生したとしても、それは相手に原因があると強くいうする人もいるはずだ。しかし、よく考えればわかることだが、そもそも普通という言葉はとても曖昧だ。普通とはなにか問われても、それをきちんと説明できる人は少なくし、いまの普通が未来の普通ではないし、自分の周囲の普通が海の向こうの普通と同じとは限らない。普通とは難しいのだ。

しかし、多くの人は普通という言葉を安易に使って、いろいろなことを解決した気になってしまう。常識を疑えという人も、常識を普通という言葉に置き換えてみればわかるが(多くの文脈で置き換え可能だし)、なにを普通と定義しているのか不明なままに、普通じゃ駄目なんだという話をする。それぞれの普通があっていいじゃないのか、それが多様性の時代じゃないかと言いたいところだけれども、普通がたくさんあることはそれこそ普通じゃないし、普通が乱立する世の中は想像するだけで生きにくい気がする。が、そんな普通の考えでは駄目なのかな、と思うと、普通という言葉の罪深さがある。