サカタカツミノブログ

個人的なブログ。ブログなんてすべてそんなものだけど。

くつろぎの食事と正解と。

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ざっかけない飲食店ならくつろげるかというと、そうでもない。行き届かないサービスや清潔ではない空間にイライラしてしまって、料理の味がわからないこともある。逆に、萎縮してしまうような素晴らしいインテリアと、慇懃無礼とも取れるようなサービスに戸惑っていたはずなのに、結果的には心の底まで解けてしまう瞬間を味わうことだってある。だからなに、という話ではなくて、様々なことがらには正解がありそうでいて、実はあまりないと思うことがある。この考えだって、正しくはない可能性が高い。

そう考えると、やはり、正しい正しくないという考えはたぶん不毛。自分の好きと嫌いを、傷つきながら理解し、経験を積み重ねることで、気持ちいい場所にたどり着くしかない。気持ちいい場所という例えも、きっと適切ではない。が、少なくとも、わたしは、仕事であっても、食事であっても、住まいであっても、まとう服であっても、それこそ、人付き合いであっても、気持ちいいかそうでないか、が基準。さらにいうと、自分は他人にとって気持ちいい人間でいたいと考えたりもする。が、これが一番難しい。

シャツの店がしたかった。

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シャツの店がしたかった。いや、まだできるかもしれないけれども。とりあえずは過去形で。二十年以上も前の話だったと思う。オーダーワイシャツは当たり前のように存在していたけれども、フツーのシャツのオーダーは、それこそお抱えのテーラーがいない人には縁がなかった時代。好みのデザイン、身体にあった、そしてなにより、長く愛することができるだろう生地、それこそ、一緒に年を重ねられるようなシャツを、カンタンに手に入れられる店をずっと妄想していた。いつかオープンしたいと。

そしていまである。相変わらずシャツが好きだ。もう頭の中で店舗展開をシミュレートすることはないけれども、自分の店に仕入れるような気持ちで、新しいシャツを買い求める。袖を通した瞬間にわかる「あ、このシャツ好きかも」という気持ちに出会うと、わけもなく嬉しくなってしまう。うまく言い表せない、とても不思議な感覚。肌が合うとは、文字どおりこのことなのかもしれない。これが仕入れだったら、売りたくなくなるかもしれない。ということは、わたしはシャツを扱う店の主には、なれない。

ホッとする味のそれぞれ。

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ホッとする味について考えてみたことがある。海外旅行から帰ってきて、まず口にしたい食べ物はなにか、という感じだろうか。やっぱりお米を食べると日本人って実感するよねとか、味噌汁を飲むと心が安らぐとか、人それぞれあって、わたしは、その話を聞くのが好きなのだ。振り返ってわたし自身のことを考えると、いわゆる「和食」という感じのものは思い浮かばない。どうしてだろう。スパイスの効いた、酸味や旨味がキッパリしている、それこそ、和食から遠い感じの食べ物に、癒されることが多い。

米にしても、もっちりとツヤツヤとしたご飯は大好きだけれども、たまにどうしても食べたくなるのは、インド料理店などで供される上手に炊かれた長粒米。和食店で「ご飯控えめにお願いしマス」といっている(年齢が年齢だけにやはり意識しているのだ)くせに、写真のような店だと嬉々として、おかわりしてしまう。他にもタイ料理を食べてもホッとするし、フレンチのビストロで、バケットサンドイッチを食べていても、やはりホッとする。改めて考えると不思議な感覚。どこにいるのだろう自分は、って。

思い込みを捨てられるか。

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手元が見えにくくなってきたので、スマートフォンのサイズをアップしたり、デスクトップパソコンを手に入れて大画面で仕事をするようにしたりと、抵抗を続けてきたが、どうにもままならなくなって、手元が見えるメガネ、遠近両用という便利なものがあるらしいので、それを作りに行った。老眼がかなり進んでいると勝手に思い込んでいたので、レンズも高くつくだろうと覚悟して、メガネ店に出かけた。丁寧な接客を受けて、レンズを設計してもらった。写真はその時にパチリ。楽しかった。

結果として、老眼初心者クラス。しかも、見えにくくなっていたのは老眼のせいだけではなく、左目の乱視をきちんと矯正していないことが主な原因だった。適当な処置をして結果が出ないことを、勝手な思い込みで結論付けてしまって、しかもそれを放置していたという始末。新しいメガネを作ることで、視界が矯正されるはずだが、同時にまったく別のところでも、視界がクリアになった。思い込みは捨てる、というのは簡単である。しかし、難しい。老眼を心配する歳になったら、なおさらだ。

桜並木の下では考えない。

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社会人になったと実感したのは、花見の場所取りを命じられた時だった。ブルーシートを抱え、夜桜の下で宴会をするためのスペースを確保するために、朝から出かける。いまのように、とにかく座る場所を得ることができればミッションコンプリート、ではなかった時代。ただ場所を確保するためでは、仕事が出来ないヤツと烙印を押されていた。花を愛でることができるのはもちろんのこと、集まりやすく、トイレにも行きやすいなど、その場所で快適に時間を過ごせるために、考慮すべきことはたくさんあった。

誰かのために何かをすることは難しい。良かれと思ってやることが、他人のためにならないことがあるからだ。目の端に入るゴミ箱が気持ち悪いと感じる人もいれば、ゴミが簡単に片付けられるポジションがストレスを軽減させる人もいる。そういうことをいちいち考えながら、場所を確保し、準備をするのはとても頭を使う。まるで「仕事に必要なことは、花見の幹事をすることで学んだ」という本が書けそうなくらいだ。嘘、それは大げさすぎる。いまはなにも考えず桜並木を通り過ぎる、そんな花見で満足である。