コーヒーミル買いました。
きっかけは、挽きたてのコーヒーを飲みたい、というだけだった。それよりも、焙煎したてのコーヒー豆で飲みたい、というだけだった。そもそも、美味しいコーヒーが飲みたい、というだけだった。結果として、できるだけ新鮮な豆を手に入れて、自分でカリカリと律儀に挽いて、自分好みのスピードでお湯を落として、という当たり前のワークをやるしかない、となった。だから、アンティークコーヒーミルの収集をしているのだが、この説明は的を射ていないのはわかっている。アンティークである必要はどこにもないから。
日本の骨董市に出る、普段使いできる古いコーヒーミルは、決して安くない。なので、見るだけになる。たまに掘り出し物に出会うと、幾度もその場所を通り過ぎ、逡巡する。その揺れ動く気持ちに翻弄されている状態が楽しいし、好きなのだ。写真のコーヒーミルは、フランスから郵便小包で送られてきたもの。それほど古くないのでコンディションもいいし、実用的。挽いたコーヒーの粒度も揃っている。しかも安価だった。こういう出会いがあるから、古いミルの収集は止められない、と言い訳したくなった。ミルはひとつでいいはずだけど。
進化し退化して進化する。
月に何度か足の調子がすぐれない日がある。といっても出かけないわけにはいかないので、足に優しいシューズに頼ることになる。包み込む感覚が素敵すぎるのに、がっちりとホールドする能力はとても高くて、このシューズを選んで良かったと、それこそ何度でも思わせるくらいの性能を発揮してくれる。写真のように色違いで何足も揃えるのはファッションでもなんでもなくて、シューズの痛みを最小限にするためのローテーションを実施するための策。NB1400に、それこそ、全幅の信頼を置く私。愛してる。
先日「靴が進化することで、人の足は衰えている。なので、進化しすぎることはよくない」という趣旨の記事を見た。確かになと、合点がいった。疲れにくいシューズばかり履いていると、そうではないシューズに履き替えた時の、足への負担が違いすぎることに気がつく。痛む筋肉が違う、とでもいえばいいのか。とにかく、変なところが痛む。ただ、靴が進化することで、肉体的な退化を産む反面、その進化が、衰えた肉体をカバーもしてくれることを、見落としてはいけない。物事にはいろいろな側面がある。
年齢なりに成長すること。
年相応という言葉がある。当たり前のように使っていたけれども、実は意外にそれは難しいことに気がつく。ある年齢になれば、その年に相応しい役職について、それ相応の振る舞いをしていると、勝手に思い込んでしまっていた。が、実際のところは、年をとっただけでは、それ相応の振る舞いはできないし、役職もついてこない。容姿だけが年老いて、中身は全くない。地位は与えられたとしても、その地位に求められる職務を全うするだけの能力が備わってないので、逆に苦しむばかり、ということにもなる。
だからといって、いつまでもそれを放置しておくわけにはいかない。人は黙っていても年をとるし、結果的に、年齢を重ねるにしたがって、周囲から求められることが増えるのだ。お肌のハリや希望など、失うことはたくさんあるのに、求められることは多くなる。理不尽なように思えるが、こればかりは仕方ない。そうやって、人はある意味、この世に生まれてきた役割を果たし、消えていくのかもしれないと、深く考える。いや、別に深くもないか。要は、日々成長することは、自分のためだけではない、という程度の話。
気配りすることの難しさ。
周囲にまったく気配りができない人がいる。人の話を聞いていないというレベルではなくて、そこにまるで自分しかいないように振る舞う、という凄さ。もっと周りを見渡していれば、人の話に耳を傾けていれば、相手の気持ちを察することができれば、いまのようなことにはならないのにと、おせっかいだけど思ってしまう。けれども、相手にそれを期待することは酷なのかもしれない、とも考える。目の付けどころは、人によって大きく異なるのだから。でも、勝手に期待してしまうのが人の常。自分にもできるのだから、とか言いながら。
当然、自分も見ているようで、実はまったく見えていないことがたぶん多くて。その結果、周囲に気配りができない人物である、という評価を受けている可能性は高い。少なくとも、そういう風に手前勝手に考えておくことで、ある種の行動を促し、別の種類の行動を抑制することになるのだから、損は少ない。いや、少し違うか。どう考えても見えない部分がある、そして、その部分はいくら想像力で補ったとしてもなお、配慮が足りなくなるのを自戒するとともに、相手に寛容になる準備をするということか。許すという行為は、気配りよりも難しいし。
狂わずに止まらないこと。
MacintoshはSEあたりから、クライアントに専用のリュックサックに入れて運び、ハイパーカードを使ってプレゼンテーションをしたり、Newton MessagePadは歴代持っていて、その大きさに閉口しつつ、無理して使ったりしていた。Appleにお布施を払うのが大好きだったわたしは、当然Apple Watchは興味がありすぎ、店に何度も足を運び、手に取り、こっそりとはめてみたりして、インターネットの画面で購入のボタンを押しては、キャンセルを繰り返していた。うん、単純に欲しかったのだ。素敵だし。
結果として、手元にApple Watchはない。わたしが時計に求める機能は、狂わない止まらない。逆にいうと、この機能を満たすためにかかるコストが高いとなると、購入を躊躇するに価する(変な日本語・笑)。Apple Watchはその点、狂わないということに問題はないけれども、止まらないという点に大きな問題を抱えていると聞くし。充電を忘れたから使えない、それはとても困る、という存在になりそうだから。ただ、同時に「時計として考えなければいいのか」と、買う理由を探してもいる。