サカタカツミノブログ

個人的なブログ。ブログなんてすべてそんなものだけど。

あらためて働くを考える。

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観光地の隣に事務所を構えている関係で、非日常な状況に遭遇することがある。といっても、それほど大げさなことではなくて、要は祭りに「浸かる」と表現すればいいのかもしれない。どこからか人が湧いてきて、とても騒いでいる。楽しそうな非日常を横目に見ながら、締め切りをとっくに過ぎた原稿を書く日常。いや、締め切りをとっくに過ぎていることを日常にしてはいけないのだが、それはそれとして。その非日常に一瞬だけ触れるためにいそいそと徒歩0分の場所へ向かう。ま、サボっているということだ。

カメラでパチリ。写り込んでいる人々をみると、噺家がくっきり。遠くから見て職業がわかるって凄いなと。働くが、それこそ板についているということなのだろう。なんだろう、この感覚。不思議。若いときは働くということを、もっと頭で考えていた。そう、誰かに理解してもらいたくて、説明ばかりしていた。が、ある程度の歳をとったいま、逆にもっとフィジカルに考えてもいいかもしれない、と思っている。あらためてしばらく封印していた「働くを考える」ことをしよう。要は新連載が始まるということ。

その瞬間を切り取る習慣。

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古い写真を見るのが好きだ。高名な写真家のそれを鑑賞するのはもちろんのこと、ごく普通の人が撮影した、何気ない日常を切り取った一枚が好きだ。ソーシャルネットワークツール全盛時代、似たように日常を切り取った写真を目にすることは多くなったけれども、昔のそれとは味わいが違うような気がする。その瞬間を留めておきたいという気持ちと、この瞬間を留めることで誰かに褒められたい、と意識する感覚の差かもしれない。作為的というほど大げさではない。無意識の行動の中に、他人の視線が入り込む。

例えば、飲食店で美味い料理よりも、フォトジェニックなそれを出すことを意識したほうが、マーケティング的には手っ取り早い、と考える人がいても不思議ではない。とてもじゃないが食べきれない量、だけれども万人が驚いてしまう料理だと、それと向き合っている瞬間を切り取って、シェアしたくなる衝動は自然だし、それに素直に凄いなという人がいることは、当然の成り行き。同時に、見て驚いている瞬間を切り取っている間に、味わいが落ちてしまうかもしれない料理のことを考えると、少し切なくもなる。

豆の旨さにいま気がつく。

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好き嫌いなどないと自慢げにいいたいが、残念ながら少しだけある。まずキュウリ。近所のサンドイッチが美味いパン屋さんでも、ツナサンドのキュウリは抜いてもらう。サラダがとても美味いフレンチレストランでも、抜いてもらわなかったキュウリは同行者の皿にこっそりと移したりする。ただ、好みではないだけで、実は食べられる。スイカはスープやシャーベットになっていれば我慢できるが、切っただけの状態だと食べられない。苦手ではなく、これは嫌い。ただ、大人になってから好きになったものもある。

例えば、豆はその典型。子どもの頃、豆ご飯だといわれれば、憂鬱になったものだ。煮豆も好きではなかったし、おせち料理の黒豆に心弾むことはなかったし、節分のときの煎り大豆だってまったく好きじゃなかった。今はどうだろう。豆は好物だ。インドレストランにおける豆カレーは、文字通りファーストチョイスだし、ビストロでも豆料理があれば頼む。和食屋さんにおける土鍋で炊かれた豆ご飯は、歓声を上げるメニューの一つだ。そう考えると揺るぎない価値観の持ち主なんて、幻想なんだなと思う。きっと。

自分の物差しという考え。

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思い込みと付き合うのはなかなか骨が折れる。間違いなくそうだ、と勝手に決め付けてしまって、そこから他へと思いが至らないことは、日常茶飯事なのだ。例えば、コーヒーサーバーに杯数の目安が印刷されていることはよくあることだけど、あの一杯はなんの一杯を意味しているのかを深く考えることなく、まあ、一杯なんだろうなと思い込んでしまっている自分に愕然とする。量が正確に表記されていても、自分が利用しているカップの容量がわからないと、これはこれでまったく目安にはならないのだけれども。

ペットボトルの容量は一定だと思い込んでいて、値上げをしたいメーカーはその心理を上手くついて、こっそりと減量してシレッとした顔をする。飲食店でよく見かける一人前という表記だって、なにをもってそうなのかという明確な定義はなくて、結局、どのくらいが適量なのかがわからない。化粧品などの一回分という表記にしても、なにを根拠にその分量なのかな。そう考えると、結果として自分の物差しを持つしか混乱を防ぐ手立てはない。ただ、その物差しを作る基準の設定がまた難しい、という悩みがある。

今宵もバーで酒を飲む私。

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バーで酒を飲む時にいくつかのマイルールがある。といっても面倒なルールでもなんでもなくて、要は飲み過ぎないためのおまじない、のようなものである。まず、よほどのことがない限り、三杯までで切り上げる。美味い酒をサクッと飲んで帰る。飲みすぎるとろくなことがないので。次に、最初はジントニックを頼む。理由は簡単で好きだからである。バーテンダーの技量を試そうなんて魂胆はさらさらない。ジンの銘柄にもこだわらない。もちろん、美味しいジンであってほうがいいに決まってはいる、けれども。

ちなみに、ジントニック。あのサヴォイのカクテルブックにも、レシピは未掲載。ジン・スリングなる、ナツメグを少しおろして仕上げる、という興味深いカクテルは掲載されているのに、である。ま、種を明かせば、ジン・トニックは、第二次世界大戦後に流行したカクテル。手元にある1971年発行の「カクテル事典(杉田米三著/柴田書店)」にも、ジン・アンド・トニックと表記され、ジン・トニックと省略されて呼ばれる、と記載があるくらい、なんて話はバーではしない、というルールが、実は最も重要だ。