サカタカツミノブログ

まったく個人的なブログ。ブログなんてすべてそんなものだけど。

戦わないことで個性的に。

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差別化という言葉は使いたくないけれども。多くの場合、違いを見せないかぎり、選ばれることはない。企業であってもサービスであっても製品であっても、それこそ人物であっても同じことだろう。なにか理由があるから選ばれるわけだし、さしたる理由がないとしても、それでも選択されるということは、そこに選ばれなかったものとの違いが存在するはず。それが微差であったとしても。ただ、そもそも選ばれるということは、複数の選択肢の中に身を置くことであり、いわば戦いは必然である。意外にしんどい。

唯一無二の存在になる、ある意味個性的でありさえすれば、複数の選択肢のなかに入らなくても済むかもしれない。逆にいうと、選択肢に入らないようにすることで、個性的な存在になれるかもしれない。戦わないこと、選択肢にならないことで、個性を際だたせる。最近、事業の方向性や、働きかたについて、意見を求められることが多いけれども、大した話ができるはずもない。ただ、ポジションを少しずらすことによってなるべく戦わないで、ちょっとした個性を際立たせる方法を、一緒に考えるようにしている。

炊き込みご飯という至福。

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締めのご飯が土鍋で炊かれたそれ、というメニュー構成の店が多くなった気がする。季節のいろいろをギュッと詰め込んで、ふっくらと炊き上げられた鍋は、開けた途端に歓声が湧き(というか、自然と声を出してしまう)、その香りにクラクラしてしまう。旨そうだ、というより、きっと、それは間違いなく旨い。ただし、たくさんは食べられない。なぜなら、その一鍋(一皿ではなく)にたどり着くまでに、いろいろと食べているからだ。最後にお楽しみが待っていてもなお、そのお楽しみのためのセーブは難しい。

「どのくらい召し上がりますか?」という店主の呼びかけに「茶碗半分か、軽く一杯程度」と応じる。本当は二杯は食べたいところだが、悲しいかな、もう食べられない男、齢五十である。結果として残ったそれはお土産となり、お握りにしてもらったり、そのまま持ち帰り容器に入れてもらって、手に下げて帰ることになる。といいつつ、ほとんどは一緒にお付き合いいただいたかたに、お持ち帰りいただくことになるのだけど。「翌朝の食卓が豪華になりました」というメールをいただくと、こちらまで嬉しくなる。

シンプルに考える大変さ。

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モノを減らしたり、ライフスタイルを簡素化したり。それらを指南する書籍をいくつか拾い読みした。重要なのは、自分が気持ちいいと思える状態にしておくことで、シンプルにそれだけでいいと、それらの本には書かれていた。よく考えればわかるのだが、それは難しい。そもそもモノに囲まれたり、カオスな状態なライフスタイルが気持ちいいと思える人にとっては、そういう手段を選んで実行すること自体が気持ち悪い。なにを当たり前のことを書いているのだ、と怒られそうだが、この視点、意外と忘れがちだ。

自分にとって良いものであっても、他者にとっては耐えられないほど不愉快なものであるかもしれない。逆にいうと、自分が嫌だと感じていることであっても、他者はそうでもなく、むしろ快適なのかもしれない。そう考えると、快適に過ごすための方法が見つからなくなる。自分ではない誰かの考えに、それこそ、いとも簡単に触れられる時代になったからこそ、ストレスは増している。そして、自分も他者に考えを垂れ流すことによって、自分自身を守ろうとすることもまた、増えた。その罠から逃れるのは難しい。

働くをリセットする瞬間。

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働く女性の見本がとても少ない時代があった

 大学を卒業して就職をするという道筋が当たり前の時代になりつつありますが、この道筋は昔からあったというわけではありません。いまから30年近く前に、新卒採用のためのイメージ広告を作成するために、わたしがある企業の人事部へと打ち合わせに訪れた時に、ついでに、と相談されたのは、本社に女子トイレが一つしかないことでした。これから女性がどんどん職場に進出してくる、少なくとも本社(とても大きな企業でした)勤務になるとしたら、トイレが間違いなく不足する、それはわかっているけけれども、そもそも女子が数多く入社するのか疑問だ、という時代だったのです。

 いまとなっては笑い話ですが、かつてはそんなことを考えなければならないほど、女性が働く、こと長く、あるいは出世をしながらという状況は、一般的ではありませんでした。ですから、働く女性にとって見本となる人はとても少なく、貴重な存在だったのです。その、ごく一部のデキる女性たちが先頭を引っ張って、現在の女性のキャリアのロールモデルのようなものが形づくられてきました。俗に(厳密な意味では違うのですが)『雇均法一期生』と呼ばれる女性たちが、それにあたります。手探り状態の中、どのように働けばいいのかと、一生懸命考えてきたのです。

見本が増えすぎたからこそ見本を見失ってしまう

 しかし、最近の女性のキャリアには少しずつ変化が起きているようです。かつてのように、誰もが知っている手本となるような女性を目指すという働き方ではなくて、周囲を伺いながら自分らしく働くという選択をする人が増えているのです。理由はとてもシンプルで『見本となる人が増えた』ことにほかなりません。有名ではないけれども、自分にとっては憧れる見本が、それこそ就職活動をしているときから存在して、その人を目指すというスタイル。遠く離れた、とても手が届かない人ではなくて、少し頑張れば真似できるかもしれないという点も、とても大切なようです。

 少し前を走っているだけなので、その背中は追いやすい。テレビで、パソコンの画面の中で、書店で、そんなかけ離れた場所で見かけるような人は目標にもなりませんが、目の前で働いている先輩なら、なんとなく頑張れればという気になるのは、わかるような気がしますよね。けれども、30歳を過ぎて、ふと、改めて前を見てみると、ひとかたまりの集団なっていたはずの先行集団が、実はばらけ始めていることに気がつくのです。昇進、結婚、出産、転職、独立。見本となる人は同じトラックを周回していたはずなのに、だんだん別のトラックを走り始めていることに愕然とするのです。

戸惑って立ち止まってしまうキャリアの曲がり角

 こう書くと「そんなことない。もっと前にそうなることに気がついていたはず」という声が聞こえてきそうです。その指摘は正しい。が、多くの人は問題を先送りしたがるのが世の常。さらに、問題を深くしてしまうのは、30歳を過ぎたあたりから、自分の能力にある種の見切りをつけなければならないと、思い込んでしまうことです。見本にしていた先輩たちのいまを見て、自分の現在の能力を比べてみると「このくらいまではいける」逆に「この程度しかいけない」と、勝手に悟ってしまいがち。そのタイミングと先行集団がバラける時期が重なると、どうにも戸惑ってしまうようです。

 ただ、このタイミングだからこそ、戸惑って立ち尽くしているのではなく、改めて自分のキャリアを見直してみる絶好の機会なのです。日々そういうことを考えているという人は別にして、多くの人は自分のキャリア、働くことと暮らすことなどを、真剣に考えたのは、就職活動のタイミング以来なはず。そう、その頃の自分といまの自分は少なくとも、まるで違っているはずなのです。もうすっかり別人になったと自覚して、改めてこれからどうするのかを検討してみることをお勧めします。方法は簡単。働き出したころの気持ちを『引っ張りだしてきてみる』ことから始めてください。

前を行く人を追いかけるという働き方から脱却してみる

 新しいロールモデル、つまり見本となる人を見つけるという方法もあるのですが、いつまでも他人に依存しているようだと、その人が大きく道を変更したときに、またしても戸惑ってしまうこと請け合いです。それならば、次の道は自分を信じて、自分なりに進むプランを立てるほうがいい。その基準となるのが、過去の自分です。働き始めたときに思い描いていた自分といまの自分。比べてみてどうでしょうか。違っていることが悪いことではないのです。そのときに考えていた未来と、いまが全く違っていたとしても、いまに満足しているならば、問題はない。逆に不満でもまったく問題なし。

 これを読んでいるあなたが、35歳だとして。22歳で大学を卒業、就職してから12年ほどです。65歳まで働くとして(数字でみると長いですね)あと30年あります。ということは、あなたが経験してきたキャリアよりも長い年数が、まだ残っているとも考えられる。少なくとも、働き方を見直し、新しいチャレンジをするのに遅すぎると断言する年齢ではない。としたら、先を見失ったこと、戸惑っている状況を好機到来と捉えるのがベストなはずです。とはいえ、働くだけが人生ではないので、それはそれで難しいところなのですが。それはまた機会を見て書くことにします。

ほんものとにせものの間。

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この人は本物、とうっかり信じてしまって、後で悔やむことがよくある。逆に、あの人はうさんくさいと思い込んでしまって、そうじゃないことに気づき、うさんくさいと誤解していた時間を惜しんでしまうことも、割とある。その間にあるなにかは、よく似ていて、判断がとても難しいのだ。紙一重というほどは薄くないけれど、まあ、それに近いかもしれない。仲良くなった、尊敬した、もしくは信頼した、その後でやってくる真実は、意外なほどダメージが大きい。だからこそ慎重に、と思うが、失敗を繰り返す。

ただ、なにが本物で、偽物はなにか、という定義は曖昧というより、正解は無い。ある人にとっては本物だけど、別の人にとっては偽物だというケースはざらにあるだろう。もしかすると、後から偽物だと気がついたと思っていても、実際には、出会ったときには本物だったけれど、今の自分にとっては偽物になってしまった、のかもしれない。そう考えると、どんな時も、誰に対しても、本物な存在でありたいと、それを目指すことは、途方もなく難しいと思えてくる。いや、別に目指しているわけじゃないけれどさ。