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サカタカツミノブログ

まったく個人的なブログ。ブログなんてすべてそんなものだけど。

その街にあったあの珈琲。

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自家焙煎という言葉に過剰に反応してしまう。珈琲が好きなので当然と言えば当然なのだが、それに加えて、その場所でしか飲めないという、ある種の物語のようなものに惹かれてしまうのも大きな理由。コーヒー豆は生鮮食品であると思っているので、できれば評判のいい、流行っている店で飲みたい。たくさん客が入っているということは、美味しいはずだ、という以上に「きっと豆が新鮮である」と、類推できるからだ。余談だけが、和菓子屋さんもそうだ、と思っている。流行っている店は商品の回転が早い、ということは、いつも出来立てに近い新鮮な菓子が食べられ、結果的にそれは美味しい。

街に愛されてるコーヒーショップは、佇まいがいい。さりげなく溶け込んでいるのに、結果として際立っている。浮かび上がってくるというと大げさだけど、歩いていても目の端に入る。その店内の空気を壊さないように、そっと中に入ってみると、その街の空気が流れている。邪魔をしないようにあてがわれた席に座り、その店で飲むべきメニューを見つけ出すことに全力を傾ける。といっても、店として一押しだったり、ネットで評判をとっているそれを飲む、ということではなく。今の自分の気分に相応しいコーヒーを探すと。そう、その街に暮らしているとして、今、その場で飲みたくなる一杯を。

たまごを愛してやまない。

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物価の優等生といえば、たまごかバナナかという感じで、安さの代名詞になってしまっているたまごだけど、なかなかどうして、まだまだ人気者だ。たまごが乗っているだけで、料理が美味しそうに見えたり、たまごがたくさん使われているだけで、そのメニューがゴージャスに思えたりする。みんなどれだけたまご好きなんだ、と思っている私はどうかといえば、それはもう大変なたまご好きである。親子丼だって鶏肉がたくさん入っているタイプのものよりも、出汁とたまごを自慢するようなそれが好みなくらいで。

居酒屋で飲んでいてもだし巻きがあれば必ず注文するし、ビストロでもメニューになくても「卵料理を作ってもらうことはできますか」と無理強いをしてみたりする。蕎麦屋の玉子焼きは絶品だと思うし、たまごのサンドイッチは、それこそサラダタイプであっても、ゆで卵であっても、愛してやまない。休みの日の少し寝坊をした朝は、塩の効いたよくいえば素朴な、悪くいうとラフなバターをたっぷりと使って、いい加減なオムレツを作って、少し気の抜けたクレマンと一緒に食べたいなと。寝巻きと寝癖のままで。

あらためて働くを考える。

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観光地の隣に事務所を構えている関係で、非日常な状況に遭遇することがある。といっても、それほど大げさなことではなくて、要は祭りに「浸かる」と表現すればいいのかもしれない。どこからか人が湧いてきて、とても騒いでいる。楽しそうな非日常を横目に見ながら、締め切りをとっくに過ぎた原稿を書く日常。いや、締め切りをとっくに過ぎていることを日常にしてはいけないのだが、それはそれとして。その非日常に一瞬だけ触れるためにいそいそと徒歩0分の場所へ向かう。ま、サボっているということだ。

カメラでパチリ。写り込んでいる人々をみると、噺家がくっきり。遠くから見て職業がわかるって凄いなと。働くが、それこそ板についているということなのだろう。なんだろう、この感覚。不思議。若いときは働くということを、もっと頭で考えていた。そう、誰かに理解してもらいたくて、説明ばかりしていた。が、ある程度の歳をとったいま、逆にもっとフィジカルに考えてもいいかもしれない、と思っている。あらためてしばらく封印していた「働くを考える」ことをしよう。要は新連載が始まるということ。

その瞬間を切り取る習慣。

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古い写真を見るのが好きだ。高名な写真家のそれを鑑賞するのはもちろんのこと、ごく普通の人が撮影した、何気ない日常を切り取った一枚が好きだ。ソーシャルネットワークツール全盛時代、似たように日常を切り取った写真を目にすることは多くなったけれども、昔のそれとは味わいが違うような気がする。その瞬間を留めておきたいという気持ちと、この瞬間を留めることで誰かに褒められたい、と意識する感覚の差かもしれない。作為的というほど大げさではない。無意識の行動の中に、他人の視線が入り込む。

例えば、飲食店で美味い料理よりも、フォトジェニックなそれを出すことを意識したほうが、マーケティング的には手っ取り早い、と考える人がいても不思議ではない。とてもじゃないが食べきれない量、だけれども万人が驚いてしまう料理だと、それと向き合っている瞬間を切り取って、シェアしたくなる衝動は自然だし、それに素直に凄いなという人がいることは、当然の成り行き。同時に、見て驚いている瞬間を切り取っている間に、味わいが落ちてしまうかもしれない料理のことを考えると、少し切なくもなる。

豆の旨さにいま気がつく。

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好き嫌いなどないと自慢げにいいたいが、残念ながら少しだけある。まずキュウリ。近所のサンドイッチが美味いパン屋さんでも、ツナサンドのキュウリは抜いてもらう。サラダがとても美味いフレンチレストランでも、抜いてもらわなかったキュウリは同行者の皿にこっそりと移したりする。ただ、好みではないだけで、実は食べられる。スイカはスープやシャーベットになっていれば我慢できるが、切っただけの状態だと食べられない。苦手ではなく、これは嫌い。ただ、大人になってから好きになったものもある。

例えば、豆はその典型。子どもの頃、豆ご飯だといわれれば、憂鬱になったものだ。煮豆も好きではなかったし、おせち料理の黒豆に心弾むことはなかったし、節分のときの煎り大豆だってまったく好きじゃなかった。今はどうだろう。豆は好物だ。インドレストランにおける豆カレーは、文字通りファーストチョイスだし、ビストロでも豆料理があれば頼む。和食屋さんにおける土鍋で炊かれた豆ご飯は、歓声を上げるメニューの一つだ。そう考えると揺るぎない価値観の持ち主なんて、幻想なんだなと思う。きっと。