サカタカツミノブログ

個人的なブログ。ブログなんてすべてそんなものだけど。

成長するタイミングとは。

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誤解を恐れずに書いてしまうと、多くの人は一定の年齢に達したら、それほど成長しない、といっても、別に体格の話ではない。人としてと言い切ってしまうといろいろとお叱りを受けそうだけれども、だいたいにおいて、多くの人はいつまで経っても似たような失敗をしているはずだ。心当たりがある人も多いだろうし、もちろん、わたしもそうだ、認めたくないけれど。ただ、成長しているふりというか、グーンと伸びたと見せかける方法がある。それは『感心した人の真似をする』ことである。取り入れるとか参考にするという甘い考えは捨てて、とにかくトレースするように真似をする。これだけ。

いろいろなことをうまくやっている人の多くは、まあ、才能もあるとは思うれども、それ以上に『うまくやってのける方法を知っている(もしくは無意識に実行している)』ように感じる。型化とかノウハウとかハックとか、いろいろな表現はあるとは思うが、結果的に、やりかたを知っている人なのだろう。それを真似るだけでいい。一つ上手くできることが増えるはずだ。そして、それを見た周囲の人は「あれ、あなたは成長したね」と思ってくれる。これはいくつになっても変わらないし、逆にいうと、この方法さえ理解していれば何歳になっても、それこそいつまでも成長できるのだ。素晴らしい。

別に身近な存在だとか、憧れの人の方法でなくてもいい。本を読む、感心する、真似をする。このサイクルを繰り返すことも、成長を促進する。忘れがちなのだが、読書をするということは、他人の思考をトレースすることであり、そこで得られたものは偉大なる財産なのだ。若いうちは、それこそ無理矢理にでも本を読まされるし、知識という名のそれを強制的に詰め込まれる。ので、グングンと成長するのだけれども、歳をとってしまうと成長をするプロセスを、ちょっとした経験とそこから得たなにかだ、と思い込んでしまう。が、経験するだけでは成長しない。学べる間はいつも成長するタイミングなのだ。

人の時間を消費すること。

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年齢を重ねるとともに相談されることが増えた。まあ、世の中の多くの人はもっと早くから相談される人生なんだろうけれども、意図的に相談されることを避けてきた人生なので、相談に出会うことは少なくて済んだ。そう書いてしまうと相談されるのが嫌だというふうに聞こえてしまうけれども、まったくその通りで、相談されることは苦手である。理由はとてもシンプルで、相談とは『相手の時間を消費すること』だと考えているからだ。といっても、それは相談を受ける側の時間を時間を消費するから、ということではなくて、相談をする側に無駄な時間を使わせたと思われないかという不安からだ。

相談される相手との情報共有が上手くいってない場合、そもそもの知識や考えかたなどの前提条件にズレが大きい場合、相手は相談しているつもりでいても実際は何も相談していない場合など、相談に対して的確に応じるには、いろいろな準備が必要なはずけれども、経験上、そういう準備をする時間などないことが多い。結果として、わかっている状況、過去の類似ケース、自分の経験など、ありあわせのネタで『まあまあごく一般的にはこの程度だろうと推測される』回答をするしかない。それがたまたま素晴らしい答えであるときもあるが、往々にして大した話でもなく、それほどスッキリはしない。

結果的に『時間を無駄に使う=人の時間を消費してしまう』という感じだなぁと思ってしまって、ネガティブな気持ちになってしまう。期待に応えられなかったというのとは違う、上手く説明できないが、徒労感は半端ない。だとしたら、相談は受けないに限ると決めていた。が、年齢も相応になってきたし、相談くらい受けないと格好がつかない感じになってきた。上手く相手の期待に応えられているとは思ってはいないが、なんとなくの落としどころもわかってきた気もする。結果として、相手の時間の消費を最小限にできるようになったはずだ。だからといって、相談を受けたいと思ったことはない。

普通はという言葉の意味。

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人と会話をするということは、前提として『明文化されていない、けれども共通のルール』や『結果的に多くの人が常識だ、と思っている事柄』をベースとしてなされると思う(曖昧なのは理由がある)。と、思っていると、大間違いであることがままある、と思う(ここも曖昧に)。一生懸命説明しても、ポカンとしてピンときていない相手とは、その辺りのそもそもの前提が違っているというケースが多いはず(略)。なのだが、人の行動というのは一朝一夕に変えられるものではなくて、すぐに「フツーに考えると」とか「常識ではね」という言葉を繋いで、自分の相手とのズレを埋めようとしてしまう。

と書いている話も、別に一般的になっている話ではなくて、わたしが勝手にそう思っているだけで「いやいや、まったくズレなど起きたことがないよ」と豪語する人がいるかもしれないし、そもそも普通のことを理解していない人が悪いのだから、ズレが発生したとしても、それは相手に原因があると強くいうする人もいるはずだ。しかし、よく考えればわかることだが、そもそも普通という言葉はとても曖昧だ。普通とはなにか問われても、それをきちんと説明できる人は少なくし、いまの普通が未来の普通ではないし、自分の周囲の普通が海の向こうの普通と同じとは限らない。普通とは難しいのだ。

しかし、多くの人は普通という言葉を安易に使って、いろいろなことを解決した気になってしまう。常識を疑えという人も、常識を普通という言葉に置き換えてみればわかるが(多くの文脈で置き換え可能だし)、なにを普通と定義しているのか不明なままに、普通じゃ駄目なんだという話をする。それぞれの普通があっていいじゃないのか、それが多様性の時代じゃないかと言いたいところだけれども、普通がたくさんあることはそれこそ普通じゃないし、普通が乱立する世の中は想像するだけで生きにくい気がする。が、そんな普通の考えでは駄目なのかな、と思うと、普通という言葉の罪深さがある。

褒められない人のために。

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褒めるのが下手な人がいる。そういうタイプを注意深く観察していると、多くは自分では褒めたつもりでいる。それが始末に負えない。例えば、直属の部下が、ある仕事を終えて報告したとする。報告を聞いて「(よく頑張った、期待通りの成果を挙げた)もっとこうすればより良くなるから、しっかりと取り組んでいこう」と、カッコ書きの部分を心の中で、もしくは頭では思ったけれども、結果として言葉にするのを忘れてしまって、後段の改善点の助言となんとなくの激励だけをしてしまう。そんな上司は多い。本人としては、前段でよくやったと、心の中で認めているので褒めたつもりで大満足だ。

しかし、言われた部下にしてみたら、指摘だけを受けたと感じるだろう。考えればその通りだけれども。このタイプの厄介なところは、褒めていないことを忘れてる以上に、相手が成長するための助言をしているので、部下の心のコンディションとして良くない状況を作っていると思っていないことだ。むしろ、自分は素晴らしいアドバイスができている、より良い方向に導けているぞ、と誤解していると言ってもいいだろう。どう考えてもボタンが掛け違えているのだが、気づくことは難しい。当事者が状況を理解することは骨が折れるし、周囲も指摘しにくい。結果、部下の不幸はずっと続いてしまう。

部下にアドバイスをしているけれども、手応えがない、成長が感じられないと感じた上司は、まず『きちんと褒めているか』再確認することをお勧めする。褒めている、そう思っているだけでは駄目だ。口にして、相手が理解するまで丁寧に褒めることが肝心。態度で表しているとか、見えないところで評価しているというのは、結果的に相手には伝わらない。それ『ないのと同じ』なのだ。まずは褒めること。ついでにいうと『褒めてから指摘する』というテクニックらしきことも使わないほうがいいだろう。指摘されたことだけが印象に残ってしまう。褒めたのに伝わらずというもったいない話になる。

飽きた仕事の先の先の先。

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「この仕事はいいかな」と思ってしまうことがある。別に極めたわけじゃないし、これ以上はないと限界を悟ったわけでもない。シンプルに飽きた、という表現が正しいのかもしれない。定期的に襲ってくる、とても嫌な、でも、的確に気持ちを表現している言葉だ。このご時世、そんなことをいっている余裕などないはずなのだが、結果としてカラダは重くなり、思考は停止し、ここらあたりでいいかなと、荷物を下ろしたくなる。

でも、飽きたなと思っていたその先に「それは勘違いだった」という得難い経験をしたことが何度もあるので、ここは自分を奮い立たせる場面だと思って、少し気合を入れてみる。いろんな人と会って、会話を繰り返し(この世の中では、それもままならないなと寂しい思いもしますが)突破口を見つけ出す。先を探すことだけに集中して、他を見ないようにする。途端に、逆にいろんなものが見えてくる。そして、再始動が始まる。