サカタカツミノブログ

個人的なブログ。ブログなんてすべてそんなものだけど。

しみじみと地味で滋味な。

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子どものころはトロの握りが好きだった。腹一杯好きなものを食べていいといわれて、遠慮することなくトロを何十個と食べて、その後「好きなものを食べていい」というお許しが二度となかったことを未だに覚えているくらい。かんぴょう巻きは眼中になく、食べた記憶すらない。そしていま、この歳になって、かんぴょう巻きは大好物である。トロの握りはもう食べないが、ワサビを効かせたかんぴょうの細巻きは、締めに必ず食べる。むしろこれを食べるために、その前の握りをセーブするくらいの存在なのだ。

そう考えると、いま絶対だと思っていることは、意外に儚いことであり、変わらないものなどなにもないということなのだろう。トロの握りがあればほかになにもいらないと思っていたのに、もはやそれ自体がいらなくなっているのだから。こうでなければならない、こうするべきだ、という思い込みには、心がけて注意しなければならないことがわかる。いや、そんな大げさなことではない。ただ、かんぴょう巻きが旨いと感じられる歳になったということだ。四回目の干支を迎えてやっと、ということかもしれない。

経験の功罪を考えてみた。

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ビジネス社会に限らず、経験がないことは不利になるケースが多い。そう、なにか困難に直面したとしても、一度でも似たような経験をしていれば、意外にスムーズに乗り越えられる。ただ、逆にいうと、一度経験したのだから、二度同じ困難に直面するなといわれそうだが、それはそれとして。また、経験がないという理由だけで、チャンスを得ることができないことは頻繁なのだから、たとえそれが、タマゴニワトリ問題*1だとしても、やはり経験は積んでおくべきなのだろう。どんなことをしてでも、どこででも、誰でも。

ただ、経験が自分を縛ってしまうというケースもある。先に挙げた例だと、経験があるから、前回と同様の解決策を取ってしまいがちだが、実はもっと良い方法があるかもしれない。それを思いつくことを、自らが持っている経験が邪魔をしてしまう。新しいことにチャレンジしようとしても、経験を活かさなければという、ちょっとしたプレッシャーにも似たブレーキがかかってしまって、結果的に良いことがないというシーンも想像に難くない。だからなに、という話ではない。いつも通り、答えなんてない。人生はやはり難しい。

*1:経験ないからチャンスない、チャンスないから経験ない、どうしたらいいんだという話。

メモリーは歪んでいくよ。

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人の記憶ほどいい加減なものはなくて、自分にとって都合の良い場面を切り出して、そこだけを覚えていて、それ以外のところは忘却の彼方になっていて、結果的になかったことになっていた、ということはよくある。同じ場面において、別の人の都合の良い部分が別だとすると、同じ場所にいて、同じように接していて、同じような時間経過をたどったにもかかわらず、結果としてまったく違うシーンになってしまう。そう考えると、今までの自分の経験とそこから得た様々な知見なるものも、結構ビミョーなのかもしれない。

インターネットが発達し、ライフログが簡単に残せるようになった。それは記憶の歪みのようなものがおきることを防いでくれそうに思えるが、結果的には無理だ。だって、ブログには自分の都合の良いことを書くだろうし、フェイスブックには自分がより良く思われるだろう投稿しかしないし、ツイッターには自分がいかに頑張っているかというツイートしかしないだろうし、ロケーションログだって自分が居て都合の悪い場所ではチェックインしないはずだ。ま、メモリーが歪んで欲しいのは本人なのだから、当然の結果なのだけれど。

ホワイトボードのある家。

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正しくいうと、家ではなくて仕事場だけど。さらにいうなら、ホワイトボードではなくてアクリルボードなのだけれども。建設的な議論をしようと考えたとして、自らの考えを整理し、周囲に指し示し、誤りを正してもらったり、間違いないと同意を得たりするときに、その場で書き留めて提示できる、このツールはとても便利だ。なくてはならないといっても過言ではない。これからの時代、特に子供がいる家庭には、一枚常備してもいいかもしれないと、変な妄想をしてみたりする。それくらいいい。

話す言葉にはとても意味性があるし、顔や態度に表れる感情には、人を揺さぶるなにかがある。文字には説得力があるけれども、そこに図解という手法が加わると、参加している人たちすべての理解が一気に加速する。そのスピードを逃さずに議論できれば、発想は想定していた壁を軽く越えることができる。その気持ち良さったらない。注意しないと「酔ってしまう」可能性だってある。そういう経験を若いときから積み重ねている人は、間違いなくユニークだ。そう思うと未来は悪くない、と飛躍してみる。

プロフェッショナルの姿。

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先日、プロデュースを担当しているスープ・ラボのデモンストレーションバージョンを神田小川町のスペースをお借りして開催した。その際、食のワークショップというテーマで記事にするということで、エル・ジャポンが、そのスペースの取材に来ていた(別にスープ・ラボの取材に来ていたというわけではない)。写真はその一コマ。女性カメラマン(あれ、言葉が変だな)は、持参した脚立に乗って、鍋の中を撮影している。用意周到、準備万端、とても大きな荷物を抱えてやってきた姿に、驚いてしまった。

当然のことだろう。撮影に失敗しましたから、もう一度イベントをやり直してくださいなどといえるわけがない。そう、ミスは許されないのだ。だから、想定されるシーンに対応できるよう、自らの経験の中から必要なアイテムを選び出し、万全の備えをする。現場では、紙面へのあらゆる利用を考えて大量のカットを押さえていく。掲載された紙面に使われた写真は4カット。3センチ足らずの小さな、それこそ、ルーペで見ないと詳細はわからないサイズだった。その上がりに、プロフェッショナルの姿を見た。